「わたし明日早いからもう電気消すわよ」
先程まで私の笑い声も耳に入らない様子で、自分の机に向かって学校の課題を解いていた姉。
一区切りついたのか椅子から立ち上がると私に向かって声を掛けてきた。
「えーもうー」
当の私はというと姉の問いかけに対して、カーペットが敷かれた床に寝ころびながら単行本(漫画)を読みながら空返事をする。
「……はぁ、夜更かしするんじゃないの。あんたも早く寝なさい、明日学校でしょ」
「ちぇー」
抗議の声を上げる間もなく部屋の電気を消され、渋々枕元に本を置いてベッドにもぐりこんだ。
*
……ーン、ブーーン。
「うんん……」
ブーン、ぶううーん。
「……ぶーん?」
「……んっ」
「…………かゆっ!!」
小さな呻き声とともに布団を蹴飛ばし飛び上がる。
違和感の発生源を特定するため部屋の明かりを灯ける。
自分の足元を確認すると、足の甲に二か所、赤く膨らんだ虫刺され跡を発見した。
嬉しくはない状況を把握してしまった。
「お姉ちゃん、この部屋蚊がいるっ」
辺りを見回すが、それらしい生物の飛行は確認できない。時間が少しづつ過ぎゆく度に焦りが募る。
私の睡眠時間!
「壁?」
「……かー」
「天井?」
「……すかー、すかー、んごっ」
「どこ、どこにいるのよ! …………?」
蚊の羽音を聞き漏らさないようにと身構え、聞き耳を懸命に立てていると、違った声色が聞こえてきた。
恐る恐る声の主に目を向ける。お姉ちゃんだ。お姉ちゃんだった。
「……もう、熟睡してるし」
「なんで私ばっかり刺されるの?」
「暗すぎてどこに蚊がいるかわからないしさ」
姉の屈託のない寝顔を見ていたら、無性に文句が言いたくなり、矢継ぎ早に言葉を紡ぎ出す。
「あーもう! どこ行ったの、絶対退治してやるんだから」
不満を口に出すと少し平静を取り戻すことが出来た。改めて部屋を見渡すが退治すべき虫はなかなか見つからない。自分のベッドに腰かけ、このまま寝てしまおうかと考えた。このまま部屋の明かりをつけたままでは姉を起こしかねない。幸いなことにまだ熟睡中……あれって? まさか?
「ぷーー、お姉ちゃん鼻ちょうちん出してるーー」
姉の鼻先に違和感を感じ、恐る恐る近づくと、そこにはまれに見る光景が膨らんでいた。
「もー、かわいいんだからー」
「写真でも撮って後でみせちゃおっかなー、携帯携帯」
貴重な光景を納めようと、抜足で自身の携帯電話を掴み、レンズに被写体を写す。
「……え?」
思い出の一枚に出会った期待に胸を膨らませる最中、姉の作品にある「違和感」を覚えた。
「……うっそ……?」
その違和感の正体を暴くため顔を近づけると、分かった、私は分かったんだ。
「こんなことあり得るの? はなちょうちんに、蚊が止まってるっ……!」
鼻ちょうちんの上で羽を休める様子に、暫し釘付けになる私。
「でも……でも」
「お姉ちゃん熟睡してるけど、このままじゃわたし寝られないよ」
ただ、静かになった部屋では、掛け時計の針が進む音に、再び焦りが生まれてきた。
「どうしよう、どうしよう」
悩んでいる間にも姉の鼻風船は膨らみながらも収縮を繰り返す。
「鼻ちょうちん、どんどん大きくなってる! このままじゃ破れちゃうよっ」
私は震える両手を包み込むように鼻風船の両脇に添える——ただ、そこから動くことが出来ない。だって、鼻水だもん。
「あーっ、ああ、破れちゃう! 破れちゃう!」
両手を震わせたまま、動けない私の前で、唐突にその時はやって来た。
パチン、と音が鳴ったような錯覚を覚えた。先ほどまでの光景はすでに消え去っていた。
膝から崩れ落ち手をつく私。
行動を起こせなかった自身の弱さに、痛恨の極みを全身で感じる。
四つん這いのまま、厳しい一夜を過ごす覚悟を決めた私は顔を上げた。目の前には鼻水に濡れた姉の顔と……それに囚われた小さな雌虫の姿があった。
「ありがとう……、ありがとうっ、お姉ちゃん」
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